敦煌にて

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  1. 2014/01/05(日) 23:45:58|
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仏教のお勉強

先月、中国敦煌へ行って来ました(^◇^)

目的は三蔵法師が孫悟空と共に目指したと言われている「雷音寺」が100年ぶりに改装され、その除幕式に出席する為でした。

三蔵法師はこの雷音寺で、仏様にお迎え頂いて労をねぎらわれたと伝わっています。

さすがさすがの歴史的古刹だけあって、中国全土から本当に沢山の方々が集まっていました。
なかでも驚いたのは、その信者の暮らしぶりです。

中国浄土仏教は日本浄土仏教と違い、戒律が非常に多くあります。
僧侶で200以上、尼僧に至っては300以上の戒律を守って暮さなければなりません。

例えば、夜はベットに横になって眠ることはありません。
そもそも「寝具」というものがありません(苦笑)

また昼を過ぎたら、食事を摂ることはありません。

こうした戒律は僧侶としての戒めだけでなく、ブッダの暮らした当時の生活様式をそのまま継承しているために続いている…といったものも少なくはありません。

例えば、お昼過ぎたら食事を採らないという戒律は、当時は托鉢でしたので、

お粥もお肉も、フルーツもチーズも牛乳も…

とにかく托鉢に周った先で入れてくれる食物は、全てひとつのお椀に入れていました。

それを朝食と昼食に分けて食べるのですが…

色々な食材が混ざっているため、インドの気候によって、お昼過ぎてだんだん高温となると、食物は発酵したり、腐敗したりしてしまいます。

そこでお昼までに全てを食べてしまい、その後は何も食べずに過ごしていたわけです。

今ではさすがにお寺でも冷蔵庫はありますし、托鉢によって食物を手に入れているわけではなく、ちゃんと寺で調理をしているので、

現代ではあまり必要では無い習慣なのですが、それでもずっと継承されて来ているのですね…。

日本の浄土仏教では、こうしたブッダの生活様式を継承して日々を暮らす…ということはありません。

なぜなら仏教に対する考え方が根本から違うからです。

インドや中国における浄土仏教は、厳しい戒律を守り、よりブッダに近付こうと修行することに意味があり、

一般信者たちも自分たちには到底出来ないような厳しい修行に耐えている僧侶を、心から尊敬しています。
私も敦煌でこうした戒律を守る僧侶を目の当たりにし、本当に尊敬の気持ちが溢れました。

ただ…
インドや中国の仏教哲学からすると、仏様に近づくことが出来て、極楽往生できて、救われることができるのは、この厳しい修行に耐えた人と、その僧侶を支えるためにお布施を差し出すことができた人だけで、

そのほかの人は「救われない」ということになってしまうのですね。

一方、日本の浄土仏教は、ブッダの前に阿弥陀さまという仏様がいらして、その阿弥陀さまが私の力でこの世の全ての人を救うと約束して、もの凄く厳しい修行の末に仏様になられた。

私達、凡人がどれ程修行しょうとも、そもそも阿弥陀さまのようになれるわけがないのだから、
最初から阿弥陀さまに「よろしくお願いします」と素直に助けを求めましょう。

…という考え方なんですね。
これを「南無阿弥陀仏」と言います。

実は私…この考え方が大好きで
本当に救われたい人とか、助けが必要な人って、
もともと阿弥陀さまのような厳しい修行に耐えられないから、助けが必要なんでしょ(笑)??

私ももちろん同じです(^^)

阿弥陀さまやブッダのように、全てを捨てて、厳しい修行に耐えて、神様になれるぐらい強い人なら、もともと助けなど必要ないのではないかな…?と思います。

仏教は戒律を守れない、修行ができない弱い人は救わない…ではなくて、

戒律が守れない、厳しい修行にも耐えられない、財産もない、学問も難しい…といった凡人こそ

本当の意味で救いが必要なんだ!って、私も思います。
これを説いた方が日本浄土宗開祖の法然上人です…ね。

中国敦煌での経験は本当に勉強になりましたし、私の尼僧ぶりなど、中国の尼僧さんと比べたら、子供の遊びにもならないくらいにお粗末なものと、痛感しました(苦笑)

でも、法然上人の説いた浄土思想からすると…
こんなお粗末な私だからこそ、阿弥陀さまが助けて下さる…となるのですね(^^)

穏やかで、助け合いの精神に溢れた日本ならではの考え方…と言えるのかも知れません。

まさに福祉の原点だと思います。(^◇^)


  1. 2013/10/31(木) 21:42:13|
  2. 塾長
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脳が感じる世界について=その2


少し前に「脳が感じる世界について」

私達の脳は、単語の意味や、食べ物の味に感動したり、がっかりしたりしているのではなく
その言葉や味が発する「電気刺激」によって、感動したり、がっかりしたりしているのだ…

というお話をしました。

これはペンフィールドさんという人の研究によって明らかにされたものですが、
お化けをみたり、声が聞こえたりする不思議な現象も、人工的に脳に電気刺激を与えることによって被験者に感じさせることができたりします。

そして私達の脳は、この電気刺激によって「シナプス」と呼ばれる回路を作ります。
そしてこのシナプスは、次に同じ電気刺激が起った時、より素早くこの電気信号を伝達するように働きます。

これを心理学では「学習」というのですが…

これには良い面も、悪い面も、あります。

例えば、英単語を繰り返し、繰り返し、書いたり音読したりするのは、
このシナプスを作るためです。
同じ電気刺激を、何度も何度も繰り返すことで、脳の神経を作っているのですね。

ですが、例えば
赤ちゃんにウサギのぬいぐるみを与える度に、大きくて不快な音を聞かせて、赤ちゃんを泣かせます。
これを何度か繰り返しますと、赤ちゃんはやがて「白いもの」を見ただけで泣くようになってしまいます。

これが「神経症」です。

厄介なことに、こうした神経症は、元が「ウサギ」だったのに、
似た刺激…例えば「白いもの」や「赤い目」などにも反応するようになったりします。
そして、その反応の仕方は個人それぞれで、本人さえも何に反応しているのか、分からないこともしばしばです。

特に子供の頃の経験で、大人になってから、その経験そのものは忘れてしまっているのに
「何か」に反応して、恐怖を覚えたりするのですね。

この完全に忘れてしまっているのだけど、怖い何か…のことを「トラウマ」と言います。

例えば小さい頃、叱られる度に押入れに閉じ込められていた子供が、大人になってトイレに入る度に過呼吸を起こすようになったり

交通事故を経験した赤ちゃんが、大人になってレースゲームをしていた時、突然てんかんのような発作を起こすなど

本人さえも何故そんな症状が自分に出たのか、わからない…なんてことになってしまいます。

私達人間の脳の、もっとも素晴らしい特徴は「忘れること」だと言われたりしますが
特に、苦しいことや悲しいこと、辛いことは、記憶を曖昧にしたり、忘れたりすることによって

心を守り、感情を安定させようとする働きがあるようです。

苦しい経験を「忘れる」ことによって、
うまく行けば、心が守られますが、
失敗するとトラウマになり、神経症が出たりしてしまうのですね…。

いまマスコミなどで、新型うつですとか、アダルトチルドレンですとか
さも精神病のように言われたりしていますが

全ての心の病が=精神病ではありません。

むしろ世間で言われている心の問題のほとんどが、この「神経症」です。

神経症とは前述したように、「何か」を学習してしまった結果であり
「病気」ではありません。

だから薬では治らないんです。

学習した結果を薬で治せるなら、より良く学習できる薬(頭の良くなる薬?)があってもおかしくないですものね(笑)




  1. 2013/09/19(木) 15:13:18|
  2. 塾長
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待っていますよー

メッセージをくれた由紀さん。

悠學塾はそういう「気付き」をとても大切にしています。

一度にたくさんの人達に、同時に伝える事ができるメッセージと
少人数に、じっくりと、しっかりと伝えないと届かないメッセージがあります。

本当に大切なことは、しっかりと相手の目を見て、時間をかけて話さないと
伝わらないものです…ね(^^)

私は芸能界にいたからこそ、この違いがとてもよくわかります。


ぜひ、いらして下さい。

待ってますよー'、('∀`)
  1. 2013/09/19(木) 13:38:19|
  2. 塾長
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堀越学園の贈り物

人が感じるストレスの8割が「人間関係」からくると言います。

経済的理由も大きなストレス要因なのですが、
それでも人間関係が上手く行っていれば
少々貧乏でもなんとかなっちゃうものですよね(笑)

でも逆に、お金はあるのに、夫婦のこと、姑のこと、子供やご近所トラブル、会社のゴタゴタなどなど、
とてもとても幸せそうには見えない人は、よく見かける気がします。


こんな時、堀越高校時代に黒板の上に飾ってあった
『克己』(こっき)という言葉を思い出します。

これは孔子の言葉で
「克己復礼を仁となす」(私欲を克服し、我が身を謹んで礼をふみ行う)
からきています。


高校時代は毎日、毎日、教室で見かけるものの、
深く感じることなどありませんでした。

むしろ…
「己にかーつ!!」とか言って、遊んでいたような(苦笑)


けれどもこの齢になって、折につけ、この「克己」を思い出します。


そして同時に…

あるとないとは
互いに相手によって生まれ

むつかしさとやさしさも
互いに相手によって成り立ち

長い短いも
互いに相手によってあらわれ

高い低いも
互いに相手によって傾斜ができる


という老子の言葉も思い出します。


悠學塾の授業では、よーく孔子や孟子、老子などが出て来るのですが
一見すると難しそうに感じる賢人の思想も、決してそんな事はなく

意外と身近で
案外聞いたことのある言葉だったりします。


そして人生の中で、すこし何かに迷った時
苦しくて、親や友達の言葉も聞きたくない時

古(いにしえ)の言葉のほうが、かえって「すーっ」と心に響くこともあったりする気がします。



孔子なんて、日本で言えば、縄文時代くらいの人ですものね!
そうとう「いにしえの人」ですよね(笑)

でも逆にそんな昔から、人の悩みというものは変わらない…ということでもあるのでしょうね…。


それにしても!
大人になって初めてわかることって、本当に沢山あるものですね〜(^^)


いや〜
堀越高校からは本当にすごい、大きな大きな
これこそ本当のタイムカプセルのようなプレゼントを
私は貰っていたのだなぁーと思います。(^◇^)


子供の時にした勉強と
大人になってからする勉強。

「己にかーつ!!」の意味も、少し違ってきたような気がします(笑)


  1. 2013/08/13(火) 07:13:02|
  2. 塾長
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